『カッコウはコンピュータに卵を産む』という本を知っていますか。1991年に草思社から上下巻で出た本で、原書は1989年の The Cuckoo’s Egg です。技術書ではなく、1人のエンジニアがハッカーを追い詰めて行くという実話の物語でした。天文学者くずれの新任システム管理者が、計算機の課金に出た75セントの不一致が気になり、1年がかりで西ドイツの侵入者を追いつめていくというお話しです。当時は、海外のエンジニアって凄いなって思いながら一気に読み終えたことを覚えています。
その著者、クリフ・ストールが、今年のDEF CONで講演したそうです。
OHPと、1987年の透明フィルム
2026年8月8日、ラスベガスのDEF CON 34。講演のタイトルは「Stalking the Wily Hacker: 40 years later」。75セントの不一致を見つけたのが1986年ですから、ちょうど40年前です。
講演スタイルも独特で、みなさんお馴染みのパワーポイントやスライドの資料ではなく、会場に持ち込んだオーバーヘッドプロジェクター(OHP)でした。そして、映したのは、1987年にNSAへ事件を説明したときの透明フィルム(OHPで投影する資料)です。一部はもう判読できないそうです。現地で聴いた人が「人生で見た中で最高の講演だった」と感想を書いていました。
内容はほぼ当時の思い出話です。それでも面白いのは、話している本人の魅力によるところが大きいと思います。
75セントの向こうに、人がいた
本に書かれているエピソードが、講演でもそのまま語られています。
始まりは1986年8月8日。着任2日目に、計算時間の課金プログラムが落ちました。原因を探ると、見覚えのない新しいユーザーが75セント分の計算時間を使っていました。ユーザーを追加できるのは管理者の自分だけのはずです。「誰かが自分のシステムに入っているのか。だとしたら、どうやって確かめる?」。ここから全部が始まります。
FBIに相談すると、返ってきた質問は「被害額は?」。「75セントほどです」と答えると、「50万ドル失ったら電話してこい」と言われました。それで、FBIの助けなしに静かに追跡を始めることにした、と本人は笑いながら話しています。
まず、研究所の部屋を回ってプリンタとテレタイプを台車で「回収」し、地下に運び込みます。半田ごてと電子部品店のクリップリードで、入ってくるモデム回線に二十数台を結線し、誰かが接続するたびに通信が紙に打ち出されるようにしました。その横に寝袋を敷いて寝ていたところを上司に起こされ、「備品がなくなっているそうだが」と言われて、プリンタに囲まれたまま「知りません」と答えた、というくだりも講演にあります。
侵入者が ps -gxua と打ったのを紙で見て、「そのgオプションはBerkeley UNIXにはない。この人はAT&T System Vを使っているに違いない。北カリフォルニアでBSD以外を使う人間はいない」と、コマンドの手癖から相手がバークレーの外にいると見当をつけた話とか…。
逆探知で北バージニアの電話会社まで届いたとき、担当者から「捜索令状がないと結果は教えられない」と言われます。ストールは「令状はない。私はバークレーの惑星天文学者だ。あるのは土星と月のいい写真だけ」と返し、カッシーニの間隙や静かの海が写っていると説明した。相手は笑い、写真を郵送すると一週間後に逆探知の結果が届いたそうです。この写真の話は、本にあったかどうか私は覚えていません。
侵入者を回線に長くつなぎ止めるため、退屈な役所文書だらけの架空の部門「SDINET」をでっち上げた話も出てきます。「Operation Showerhead」と名付けられたこの作戦で稼いだ接続時間が、ドイツ側の逆探知を可能にし、追跡はハノーファーのアパートの一室まで届きました。今でいうハニーポットの、たぶん最初の例です。
どの場面にも共通しているのは、道具や権限ではなく、人と人のやりとりで事件が動いていることです。
「パスワードはどのように取得されたか」
講演の芯は、この一文の書き換えにありました。
事件のあと、NSAから届いた質問はこういうものだったそうです。「侵入者はどのように追跡されたか」「パスワードはどのように取得されたか(How were passwords obtained?)」「スーパーユーザー権限はどのように取得されたか」。ストールはこれを読んで「ひどく気になった」と言います。三人称で、受動態で、関わった人間から切り離されている。そこには「中立的な侵入者」「名前のない誰か」がいるだけで、判断も、倫理の物差しもないと感じたそうです。
そこで質問を書き換えて答えました。「このスカンクはどうやってコンピュータに侵入したのか」「この悪党はどうやってスーパーユーザーになったのか」「このネズミはどうやってCrayのパスワードを手に入れたのか」。会場は笑っていましたが、言っていることは真面目です。受動態にすると、向こう側で判断している人間が文章から消える。いまのセキュリティの言い回しにも、同じ癖があると思います。「アクセスが取得された」「侵害が発生した」。そう書くと、誰かが夜中に画面の前で次の一手を決めていた、という事実が見えなくなります。
同じ会場では、AIエージェントが主役でした
今年のDEF CON 34の目玉は、OpenAIの未公開モデルが自律的にHugging Faceへ侵入した事案の解析でした。開幕を伝えた記事の見出しは「AIエージェントは目新しさを卒業し、標準的な攻撃の道具になった」。その同じ会場で、OHPを回しながら「相手は人間だ」と言っている人がいた。このシュールさ、ものすごく興味深いです。
このブログのアクセスログにも、毎日「Googlebot」を名乗る脆弱性スキャンが来ています(偽装スキャンの今で書いた件です)。ログを眺めていると、つい「スキャンが行われた」と受動態で書きたくなります。けれど実際には、どこかで誰かがクラウドにインスタンスを立て、狙うパスのリストを選び、ユーザーエージェントの文字列を決めています。75セントの向こうに西ドイツ・ハノーファーの人がいたのと、構造は変わっていません。道具がスクリプトからエージェントに変わっても、そのエージェントに何をさせるかを決めているのは、やはり人です。
まとめ
講演で使われた技術は、どれも古いものです。テレタイプもモデムも、X.25網も、もう現場にはありません。それでも、辻褄が合わないことに気づき、それを追い続ける人間の直感と執念の話は、40年たっても古びていませんでした。75セントの不一致を「そんなものだろう」と流していたら、この話は存在していません。
ストールは事件のあとセキュリティ業界には残らず、いまはクラインの壺(表と裏の区別や境界がない、数学の位相幾何学で扱われる不思議な曲面を持つ壺)を手作りして売っているそうです。
『カッコウはコンピュータに卵を産む』の著者がDEF CONで講演という記事をみて、興味半分、懐かしさ半分で調べてみました。
参考: DefCon 34 – Stalking the Wily Hacker: 40 years later – Cliff Stoll(DEF CON公式YouTube)/Joseph Hall, “Cliff Stoll at DEF CON 34: The Best Talk I’ve Ever Seen”/草思社『カッコウはコンピュータに卵を産む(上)』/TechTimes, “DEF CON 34 Opens Today: AI Agents Graduate From Novelty to Standard Hacking Weapon”
